Tag: #天然しいたけ #しいたけ #きのこ #鉈目栽培 #里山 #里山文化
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「日本の食生活全集」全50巻(農文協)は、昭和5年(1930年)頃の食生活について、全国300地点、5000人の話者から聞き書きしてできあがった日本最大の食文化データベースです。オンラインでキーワード検索することができますので「しいたけ」関連の記事を漏れなく集計することで以下のことがわかりました。
1)天然の椎茸が里山に勝手に生えていたので、山に入れば日本中で椎茸狩りができた!
2)クヌギやコナラを切って、なたで切れ目を入れて置いておくと椎茸が生えた!
3)鉈目(なため)栽培の中心地は高千穂郷だった!
「日本の食生活全集」は昭和5年を中心とする大正末から昭和10年頃までの食事作りにたずさわった方に聞き取り調査してまとめられました。レシピなど食文化についてまとめられていますが、その土地の名産品についても詳しく書かれていますので、「しいたけ」キーワードで検索することで、天然の椎茸を山で採取できた県と、まだ種駒が無い時代に鉈目栽培で容易に椎茸が生えた場所を調べました。
椎茸を山で採取したという記述を集計することで昭和5年(1930年)ごろに森林に椎茸が自生していた県を緑で色分けしてみました。
これはあくまでも「日本の食生活全集」に椎茸狩りが記載されていたというだけのことですので、このように日本全国ほぼ緑色に塗られている結果を見ると、灰色の部分でも山奥には普通に椎茸が生えていたものと思われます。
たとえば東京でも高尾山など西部の山奥では野生の椎茸が生えていたはずですし、長野県ではきのこ天国すぎて椎茸の記録が抜け落ちた可能性もあるはずです。
無料で食べ放題!?
「秋の山にはきのこ類がたくさん顔を出す。はつだけ、はばきだけ(さんもんだし)、しめじ、まいたけ、なめこ、むきだけ、しいたけなど、さまざまな種類に恵まれる。煮つけや味噌汁にする。これら季節の材料で、しゅんを味わうことはもちろんであるが、塩蔵、乾燥して貯蔵しておき、季節はずれにも食べる。」青森県東通村
「しいたけは、五、六月ころにも少しとれるが、八月ごろ秋嵐がとおりすぎたあとは、一度に背負いかご一杯ぐらいとれ、こんなときはどこの家でもしいたけとりに熱中する。とりたての生のものを料理することもあるが、たいていは干ししいたけとして保存しておく。」栃木県栗山村
「秋の身延山はきのこの宝庫で、もみの木の下のさんまつ、はつたけ、雑木林でちたけ、しいたけ、ねずみたけ、ちょこだけなど、背負いきれないほどとれる。汁の実にしたり醤油で煮しめたりする。しいたけは乾燥して保存し、うま煮に入れると味も香りもともによくなるのはうれしい。」山梨県身延町
「山からはぜんまい、わらび、しいたけもたくさんとれる。これらの野草や山菜と、秋から保存していたごぼう、乾燥させてとっておいた干しいもがら、切干し大根、干したきのこ類で補いながら、おかずづくりをきりまわしている。」愛知県豊橋市
全国各地でこのように山で椎茸や他のきのこが取り放題になっている様子がいきいきと書かれています。そもそも栽培しなくても普通に山に生えていたんですね!
倒木に生える野生の椎茸
これらの天然椎茸は縄文時代から日本の森林に自生しており、日本から中国大陸や朝鮮半島に伝播していったことがハーバード大学の研究で明らかになっています。
「薪山で伐ってきたくぬぎやならの木を、屋敷の木の下のじめじめしたようなところへ、竹を支えにして立てかけておく。春になると、これらの木からしいたけが生えてくる。暖かい日が少し続くと、家で使うには十分なしいたけがとれるので、これを摘んでせん切りにしたものを、油揚げやにんじんと一緒に醤油味で炊きこむ。」静岡県御殿場市
なんと椎茸の胞子が周囲に多ければ、なたで切れ目を入れたりしないでも自然に椎茸が生えてきていたようです。この時代はまだ種駒が発明されていない時代なので、椎茸の胞子が飛んでこないと椎茸は生えません。
そこで、原木切って放置したら椎茸が生えた等の軽い栽培から、職業としての栽培に触れた箇所まで文字数を集計してみました。以下は栽培が行われていた土地と、記事の文字数です。文字数が多いほど、その土地では椎茸の胞子が濃厚に漂っていたはずです。
宮城県
加美郡小野田町 33文字 4巻242-242
静岡県
磐田郡水窪町 977文字 22巻283-284, 294-295, 298-299
御殿場市 327文字 22巻41-41, 59-60
神奈川県
足柄上郡山北町 144文字 14巻238-240, 346-347
奈良県
吉野郡十津川村 190文字 29巻286-287, 299-302
徳島県
那賀郡木頭村 111文字 36巻151-151
愛媛県
越智郡玉川町 129文字 38巻294-295
福岡県
八女郡黒木町 102文字 40巻259-261
大分県
大野郡緒方町 1761文字 44巻108-109, 110-111, 122-122, 136-137, 143-146, 342-347
宮崎県
西臼杵郡高千穂町 1942文字 45巻14-15, 16-16, 20-21, 26-28, 43-45, 51-52, 52- 52
児湯郡西米良村 67文字 45巻135-136
日南市 37文字 45巻343-343
熊本県
阿蘇地域 15文字 43巻353-357
鹿児島県
薩摩郡入来町 73文字 46巻122-124
西之表市 81文字 46巻261-263
そして文字数集計の結果、特に長文で椎茸栽培について書かれていた地域は以下のとおりです。これらの地域はとりわけ椎茸菌が周囲に濃厚に漂っていた天然椎茸の聖地だったようです。この三か所が他の地域と異なるのは商人がわざわざ買いにくる等、名産地としての評判が昭和初期には確立していたようです。また、なたで原木に切れ目を入れて椎茸菌が活着しやすくする鉈目(なため)栽培が行われていました。
1位 高千穂町(宮崎県)1942文字「こうしてできたなばは、地元の商人のほか、肥後(熊本)や豊後(大分)からも商人が来て、いい値で買っていく。」「地元や肥後の商人が、まだぬくもりのあるうちに、けんか腰で買いまくる。よい値で取引されるとうれしい。なば買いが大きな木綿袋になばを入れてかついで帰る姿は、大黒さまのようである。」
2位 緒方町(大分県)1761文字「大正十年には、九州沖縄八県連合共進会で最高位、翌十一年東京での博覧会で金牌を受けるなど、大分のしいたけの名声を高めていったのはこのころからである。」
3位 水窪・御殿場(静岡県)1304文字「干ししいたけを買いにくる商人のなかには、泊りこんで乾くのを待つ人もいるほどである。」
高千穂町と緒方町が祖母傾山系の南北に分かれて隣接していることにもご注目ください。
「日本の食生活全集」における椎茸栽培の文字数
分析方法の妥当性
「日本の食生活全集」の文字数順位と昭和5年当時の乾しいたけ生産量統計の順位が一致しているため、文字数のカウントによる分析が実際の生産量と相関していることが確認されます。このデータの一致は、文字数がその地域の椎茸栽培の盛んさや情熱を反映している可能性が高いことを示唆しています。このように、複数のデータソースを用いて確認することで、文字数カウントによる分析の信頼性を高めることができます。「日本の食生活全集」各巻のページ数は 384頁を中心に348頁から400頁までばらつきがありますが、各地域内での椎茸に関する記述の多さが比較の対象であるため、全体的な傾向を把握するには十分許容される範囲の誤差です。
昭和5年当時の地名想定範囲は以下のとおりです。
高千穂:「高千穂郷というのは、高千穂町を中心に、上野村、岩戸村、田原村、七折村、岩井川村、鞍岡村、三ヶ所村、それに東臼杵郡の諸塚村、椎葉村も含めた大きな地域である。宮崎県の最北端に位置し、山林がじつに九割七分を占めている。」45巻51-52
緒方町:「1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、馬場村、上自在村、下自在村、軸丸村、越生村、井上村、野尻村の区域をもって緒方村が発足。1932年(昭和7年)4月1日 - 南緒方村の一部を編入。」wikipediaより
「高千穂の山林には、なばを育てるくぬぎ、はさこ(こなら)、そや(しで)などの原木や、なばを乾燥させる炭となる雑木(しい、かし)が豊富にあり、一部の家でなばつくりが行なわれている。西臼杵郡上野村の後藤家も、なばつくりで生計を立てている農家である。
なばつくりは、秋に行なわれるなば木倒しからはじまる。鋸、斧、鉈、よき(小型の斧)を使って、なば木用の原木を倒すのは男の仕事である。朝から晩まで一人倒しした一日の仕事量を「一人区」といい、倒した原木は、「玉切り」といって四、五尺長さに切りそろえ、鉈目を入れて、山の斜面に二本ずつ交互に組んで伏せこむ。なば木倒しの一人区は、伏せこむと二〇間ぐらいのものになる。これに枝や木の葉をかぶせて、なばの菌が入るのを待つ。伏せこみからここまでの作業を「入れ木」という。
なば木は、二〇か月くらいたったころ、ほた場(なばの育成場で、南から東向きの湿気のあるところ)まで下ろす。これは足場の悪いところでの作業なので大変である。
また秋には「なば木づくり」という大仕事が待っている。なば木を一晩水につけて、「おば、おば」と声をかけながら両端を二度ずつたたいて、なば木に水を吸わせる。遅く来た台風を自然利用することもある。水をたっぷり含んだら、なば木をほた場にもどし、なばの出るのを待つ。
なばは、入れ木をしてから二年目にやっと生えてくる。秋には、二年前に入れた木になばが生えてきているので、その収穫もある。
収穫したなばは、室で乾燥させる。火つぼ(素焼きの火鉢のようなもの)に炭を入れ、その上に、なばを並べたえびら(かや製の平らな箱)をのせ、じっくり乾かす。水分の含みぐあいにもよるが、二〇~二五時間くらいかかる。なばつくりは乾燥がなにより大切で、一番気をつかう。二時間おきに火つぼの様子を見る。この火の管理が大変で、眠気とのたたかいである。しかし、商人が待ち受けて買っていくので、眠たいのをこらえて、よいなばができるよう懸命に火の番をする。
こうしてできたなばは、地元の商人のほか、肥後(熊本)や豊後(大分)からも商人が来て、いい値で買っていく。家では、売りものにならないなばを吸いもんのだしや煮しめ、混ぜ飯の具などに使う。」
45巻「聞き書 宮崎の食事」43-45Pより引用
高千穂の椎茸名人が語る鉈目栽培の思い出
高千穂の椎茸名人である広末さんが、父親と椎茸栽培したときの思い出を語ります。
その中で明かされたのが、森産業の初代社長森喜作さんが1942年に種駒を発明する前に、高千穂町田口野の広末国蔵さんの家に数日間滞在し、鉈目栽培の技術を学んだそうです。
それから30年後の1970年、杉本商店が最初の工場を建てたのも、その田口野です。
・栽培しなくても椎茸は山に生えていて食べ放題だった。(9巻120-121,35巻87-88)
・森の近くでは、原木を切ってきて家の前に置いておくだけで椎茸が生えた。(22巻41-41,22巻59-60)
・椎茸産地ではなたで原木に刻みを入れるとさらによく生えた。(44巻110-111,44巻342-347)
・春と秋にたくさん採れるので乾燥して他の季節にも食べていた。(5巻316-318,45巻223-224)
・家庭用には天日や風で乾燥していた。(10巻101-101,35巻219-221)
・産地では炭火や薪で乾燥していた。(22巻283-284,45巻43-45)
・種駒ができる遥か前の昭和初期には以下の3ヶ所が有名産地として認識されていた。高千穂(宮崎)、緒方町(大分)、水窪・御殿場(静岡)。(22巻298-299,44巻136-137,45巻43-45)
そして日本に椎茸関連の古文書が少ない理由もこれで謎が解けました。その辺の山にたくさん生えてるものは珍しくも何ともないですよね。
日本ではナタで原木に刻みを入れる椎茸の鉈目栽培が始まったのが江戸時代とされていて、中国の方が古文書に栽培の記録が出てくるのが古かったために、椎茸は中国から日本に伝来した説がありました。
しかし実態は真逆で日本が椎茸の本場でしたね。なにしろ栽培しなくても山に行けばたくさん生えていたわけです。
それにハーバード大学のDNA分析によると椎茸は縄文以前に宮崎県から中国大陸に広がっていったことがわかっています。これで高千穂は縄文時代から現代まで続く椎茸の聖地であることが判明しました!
高千穂の椎茸かご。下が狭く上が広いので、下の椎茸が押しつぶされることがない。
是非ご自身で確認してみてくださいね。
以下のブログも是非ご覧ください。