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目次
現在、「高千穂」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、宮崎県高千穂町を中心とする地域だろう。
しかし、古代の高千穂郷を調べていくと、その範囲は現在の宮崎県北西部だけではない。五ヶ瀬川上流域から県境を越え、熊本県の蘇陽、矢部、清和、さらに阿蘇外輪山南縁から南郷谷の高森、白水、久木野へと続く、より広い山間地域を一つの圏域として捉える必要がある。
本稿では、各町村史に記された記述と、阿蘇外輪山に残る「高千穂野」という地名、そして1983年の電話帳から集計した「興梠」姓の分布を重ね合わせ、古代の高千穂郷がどこまで広がっていたのかを考えてみたい。

現在の宮崎県と熊本県の県境は、古代からそのまま存在していたものではない。
奈良時代の律令制によって国・郡・郷という行政区画が整えられた奈良時代、高千穂郷は、日向国側と肥後国側に分けて再編成された。
このとき全国的に郷名は2文字に統一されたので、日向国側には臼杵郡の「智保郷」、肥後国側には阿蘇郡の「知保郷」が記録されている。(「和名類聚抄」平安時代に編纂された漢和辞典より)
つまり、もともと連続した地域名・地域圏であった高千穂郷が、律令制の国境によって、
に分けられたのである。
『大日本史』が伝える「知保」の分属
『高千穂町史』と『五ヶ瀬町史』と『久木野村誌』は、水戸徳川家編『大日本史』巻三一五の記述を引用している。それによると、肥後国阿蘇郡の知保はのちに南郷と呼ばれ、四十二村を属し、「高千穂嶺」があったという。さらに一説として、日向国臼杵郡の智保も、もとは阿蘇国に属する一続きの地域であり、国郡の区画が定められた際に、知保の地が日向国と肥後国に分けられたと説明している。
そして阿蘇郡南部にあったという「高千穂嶺」は、現在の「高千穂野」と付合する。高千穂野には国土地理院の二等三角点があり、外輪山南縁では最も標高が高い位置にある。
| 肥後国阿蘇郡、知保、今南郷と曰う。郡の南に在り、属村四十二、高千穂嶺有り、郡名由って起る。太宰管内志に按ずるに一説に、日向国臼杵郡の智保は、本阿蘇国に属し一区を為す。日向の域の北方半部阿蘇に隷い火の国に属す。南方の半部は熊曽の国に属す。国郡の治定せらるるや、知保の地両国に分属す。 |
(古代史料では、写本や後世の表記の違いにより、「知鋪」「智保」「知保」「千穂」などの異表記が見られる。)

「和名類聚抄」に記載されている肥後国阿蘇郡の知保郷。(名古屋市博物館所蔵,永禄9年書写)
宮崎県側では、その後も高千穂郷という地名が残り、現在の高千穂町へと受け継がれた。
ところが熊本県側では、知保郷が阿蘇郡などの行政区分に組み込まれていく中で、「高千穂」は郷名や自治体名としては残らなかった。
そのため、現代の地図だけを見ると、高千穂は宮崎県側だけの地名であるように見える。
しかし、阿蘇外輪山の南縁(外輪山の南側のふち)には、現在も「高千穂野」(たかじょうや)という地名が残されている。
『高千穂町史』にも、阿蘇外輪山の南縁に「高千穂野」があることが指摘されている。水戸徳川家編『大日本史』の、肥後国阿蘇郡の知保はのちに南郷と呼ばれ「高千穂嶺」があったという記述にも付合する。
国土地理院の地形図で確認できる高千穂野は、阿蘇外輪山南縁の最も高い位置にある。旧久木野村と清和村との接点に近く、高森、白水、久木野、蘇陽、清和、矢部のちょうど中央に位置する。
国土地理院地形図より

古い地名や行政区画だけで地域の歴史を復元するのは難しい。そこで、別の手がかりとして注目したのが、興梠姓の分布である。
興梠は全国的に見ると非常に珍しい名字であり、とりわけ高千穂地方とその周辺に集中している。
山間部の農家では、田畑や山林、家屋、家名が世代を超えて継承されることが多い。もちろん全員が同じ土地にとどまるわけではないが、都市部に比べれば、名字の地域分布には過去の居住圏が残りやすいと考えられる。
そこで、1983年の宮崎県・熊本県の電話帳から、対象地域における興梠姓の掲載世帯数を集計した。1984年以降に電話帳は県北・県南からさらに細かい地域別に分かれていく。
興梠氏は、高千穂郷を中心とする山間地域に古くから定着した在地有力層であり、中世には地侍や土豪、神職として地域社会を支え、近世には庄屋や有力農家へと姿を変えながら、その居住地を現在までよく保持してきた一族である。

県境をまたいで連続する興梠姓
この分布で特に注目されるのは、高千穂町から五ヶ瀬町、蘇陽町へと、興梠姓の多い地域が県境を越えて連続していることである。
行政上は宮崎県と熊本県に分かれていても地理的には、五ヶ瀬川上流域と蘇陽地方は山間の道によって結ばれ、生活圏や婚姻圏、物資の交流圏として連続していた。
さらにその北西側では、高森町20世帯、白水村24世帯、久木野村6世帯が確認できる。外輪山内側の阿蘇南郷にも、興梠姓が点ではなく一定のまとまりをもって分布していたことになる。
矢部町と清和村にも各8世帯が確認できるため、分布域は五ヶ瀬川上流から阿蘇外輪山南縁、さらに緑川上流方面へと広がっている。
現代の県境をいったん取り払って地図を見ると、興梠姓の分布は、
高千穂町―五ヶ瀬町―蘇陽町―阿蘇南郷
を結ぶ一つの帯状地域として浮かび上がってくる。
興梠姓の分布については、郷土姓研究書『九州の苗字を歩く 熊本編』も、高森町・白水村・久木野村を含む南阿蘇地域を興梠氏ゆかりの地として詳しく取り上げ、興梠姓がこの地域にまとまって分布することを紹介している。
高千穂町史が指摘する「高千穂野」、久木野村誌が比定する「知保郷」、そして1983年電話帳による興梠姓の分布と重ね合わせると、県境を越えて広がる一つの歴史的文化圏の存在を示唆している。

蘇陽峡の紅葉
高千穂町史が示す広がり
『高千穂町史』にも、「高千穂野」の存在が指摘されている。
| 阿蘇の外輪山の南郷の高地に「高千穂野」という高原がある。 |
また以下のように述べられている。
| ところが「高千穂」というのは、日向、肥後に跨がる広大な地域の総称であって、奈良時代に国郡の制度が確立して、肥後に属する高千穂が阿蘇郡に編入され、日向だけに残されて狭くなった高千穂でも、明治の初年まで「高千穂十八カ村」といって、十八の行政村があり、今の西日杵郡全部と、東臼杵郡の諸塚村の地域をおしなべて「高千穂」と言うのである。 |
高千穂町史の理解では、古代の高千穂郷は現在の宮崎県と熊本県にまたがる、広大な山間地域として考えることができる。
古代の郷の境界が、現在の町村境と一致していたはずもない。
久木野村誌が示す「知保郷」の範囲
熊本県側から高千穂郷を考えるうえで、特に重要なのが『久木野村誌』である。阿蘇郡の知保郷について詳しく解説されている。
| 神話時代から高千穂と称していた地名を、智鋪・智保・知保・千穂などと着くようになったのは、元明天皇の和 銅二年(七〇九)に「郷郡の地名は二字の佳名をとれ」との勅命があり、続いて聖武天皇の神竜三年(七二六) には「一字又は三字の地名は二字に改めよ」という勅令が出たからであった。そして慣例として、臼杵郡のちほ 郷は「智保」とかき、阿蘇郡のちほ郷は「知保」と書くようになったようである。当村の場合は、肥後国阿蘇郡知保郷の久木野の里とでも呼んでいたのであろう。里名までは三字名も許したのであろうか。 |
また阿蘇郡内に存在した「知保郷」の比定地として、久木野村誌では、次の地域が挙げられている。
| 長陽・久木野・山西・蘇陽町・上益城郡矢部町東部? |
?がついているがそれでも、知保郷を現在の旧久木野村周辺だけに限定せず、南阿蘇から山西(現・西原村北部・中央部)、蘇陽、矢部町東部まで連続する広域的な地域として捉えている点は重要である。
『高千穂町史』が東側から阿蘇外輪山の「高千穂野」に注目し、『久木野村誌』が西側から阿蘇郡の「知保郷」を検討している。両者は視点こそ異なるが、現在の宮崎・熊本県境を越えた地域的な連続性を示している。
高森町史と白水村史の見解の相違
ただし、熊本県側の古代郷について、各町村史の見解が一致しているわけではない。
例えば昭和54年刊行の『高森町史』では、高森町や白水村を「衣尻郷」に含める見解が示されている。一方、『白水村史』では「白水村は知保郷の一部であった」と説明している。
つまり、高森町や白水村を知保郷に含めるか、衣尻郷に含めるかについては、現在も一つの説に確定しているわけではない。
この不一致は、研究が不十分だからというだけではない。古代の郷境を直接描いた地図や境界文書が残されておらず、地名、地形、交通路、神社、集落の関係などから間接的に推定するほかないためである。
したがって、旧高千穂郷を現代の町村単位で厳密に塗り分けることには限界がある。
『熊本県史』は、阿蘇カルデラ北部の阿蘇谷について、中世の阿蘇文書に記された里名・小字名・坪名と、現在まで残る地名とを照合することにより、古代の条里をかなりの程度まで復原できると述べている。
たとえば、建徳三年(一三七二)の「阿蘇社領宮地居取田検見馬上帳」には、栗生里・坂侯里・河井里・北里・木村里・原里・五条上田里など、多数の里名が記録されている。さらに、それらを宮地周辺の小字名や地形と照らし合わせることで、条里の位置や、条・里・坪の並び方まで推定することができるという。
ところが、南郷谷については事情がまったく異なる。同書は、阿蘇谷の条里が中世文書と現地の地名によって復原可能であるのに対し、南郷谷については「何の手がかりもない」と記している。
この「何の手がかりもない」という記述は、南郷谷に条里や古代集落が存在しなかったという意味ではない。阿蘇谷の場合のように、中世文書に記された里名・坪名と現地の小字名を照合し、古代の地理を復原するための材料が残されていないという意味である。
そのため、『和名類聚抄』に記された阿蘇郡知保郷を、現在の白水・久木野・高森・蘇陽などのどこに比定するかについては、確実な結論を出すことが難しい。町村史によって比定範囲が異なるのも、直接的な史料が乏しく、地名・地形・伝承などから推定せざるを得ないためである。『熊本県史』の記述は、南郷谷を知保郷から除外する根拠ではないが、南郷谷の特定地域を知保郷と断定できないことも示している。
興梠姓の分布は「証明」ではない
興梠姓の分布が古代高千穂郷の範囲と重なっているとしても、それだけで奈良時代の郷境を証明できるわけではない。
名字が一般の人々に広く定着した時期は、古代よりはるかに新しい。移住、婚姻、養子、分家などによって、名字の分布も変化する。
また、今回の数字は1983年の電話帳に掲載された「世帯数」である。電話を所有していない世帯、電話帳への掲載を希望しなかった世帯は含まれない。町村ごとの人口や総世帯数にも大きな差があるため、単純な掲載数だけで名字の「割合」を比較することもできない。
特に高千穂町の295世帯という数字には、高千穂町自体の人口規模も影響している。
より厳密な分析を行うためには、各町村の総世帯数に対する興梠姓世帯の比率を算出し、周辺の非対象地域とも比較する必要がある。
それでも、全国的に珍しい興梠姓が、高千穂町から五ヶ瀬町、蘇陽町、南阿蘇方面へと連続して分布している事実は、偶然として片づけるには興味深い。
興梠姓の分布は、古代の郷境そのものではなく、後世まで続いた婚姻圏、農林業圏、信仰圏、交通圏などを映した「地域文化の痕跡」として評価するのが適切だろう。
古代の高千穂郷の正確な境界を、現在の地図上に一本の線で引くことは難しい。
しかし、次の三つの手がかりは、ほぼ同じ方向を指している。
第一に、日向国側の知鋪郷と、肥後国側の知保郷という、県境を挟んだ類似地名の存在。
第二に、阿蘇外輪山南辺に現在も残る「高千穂野」という地名。
第三に、高千穂町から五ヶ瀬町、蘇陽町、南阿蘇方面へと連続する興梠姓の分布。
これらを重ね合わせると、高千穂郷は現在の高千穂町だけを意味する狭い地域ではなく、五ヶ瀬川上流域と阿蘇外輪山南縁・南郷谷を結ぶ、県境を越えた広い山間地域だった可能性が浮かび上がる。
奈良時代の国郡制によって行政的には日向国と肥後国に分けられても、人々の移動や婚姻、信仰、農林業、山道による交流までが完全に分断されたわけではない。
現代の県境は、この地域が本来持っていたつながりを見えにくくしている。
「高千穂野」という地名と「興梠」という名字は、その失われたつながりを、千年以上の時間を越えて私たちに伝えているのかもしれない。
町史・村誌・姓氏研究・地名・電話帳という、それぞれ独立した資料が、偶然とは思えないほど同じ地域像を示していることは興味深い。